自分にとって小説を書くっていうのはけっきょく、取捨選択の技術なのかもしれない。ということを少し考えてみた。人称の選択で、一人称を好まないということもこの辺りに依拠しているのかもしれない。文字として切り取って表現できる部分が限られている以上、選び出された言葉、表出している言葉やイメージにはフェティシズムが表れている。その強度というか、個別性みたいなものをどう受け取って評価するかという点に関心があるのかもしれない。
なるべくすべてを表現したいし、フラットに広く受け入れられたいという欲望はあるけれども、過剰さが読みづらさや受容しづらさにつながってしまう以上、また、当然ながら映像のようにフレームの中のすべてを描出することが困難であり、またそれぞれの情報に対して当分のバランスを配することができない以上、書き手の責任において文章を選び抜かなければいけない。その責任という部分で、一人称はどこかずるいという感覚があるのかもしれない。それは責任の一端をキャラクターに担わせているような感覚、感情移入という現象が常に起こり得るわけではなくとも、読者をキャラクターに引き寄せる引力が強い表現であるから、また責任の一端を読者にも負わせることになるような、感じ。
そして書いている自分もまたキャラクターの視点に引き寄せられてしまう。それは文章を読んだときに感じるイメージや感覚を、よりコントロールしようとする欲望の強さのようにも思えてしまうのだ。