自分にとって小説を書くっていうのはけっきょく、取捨選択の技術なのかもしれない。ということを少し考えてみた。人称の選択で、一人称を好まないということもこの辺りに依拠しているのかもしれない。文字として切り取って表現できる部分が限られている以上、選び出された言葉、表出している言葉やイメージにはフェティシズムが表れている。その強度というか、個別性みたいなものをどう受け取って評価するかという点に関心があるのかもしれない。
なるべくすべてを表現したいし、フラットに広く受け入れられたいという欲望はあるけれども、過剰さが読みづらさや受容しづらさにつながってしまう以上、また、当然ながら映像のようにフレームの中のすべてを描出することが困難であり、またそれぞれの情報に対して当分のバランスを配することができない以上、書き手の責任において文章を選び抜かなければいけない。その責任という部分で、一人称はどこかずるいという感覚があるのかもしれない。それは責任の一端をキャラクターに担わせているような感覚、感情移入という現象が常に起こり得るわけではなくとも、読者をキャラクターに引き寄せる引力が強い表現であるから、また責任の一端を読者にも負わせることになるような、感じ。
そして書いている自分もまたキャラクターの視点に引き寄せられてしまう。それは文章を読んだときに感じるイメージや感覚を、よりコントロールしようとする欲望の強さのようにも思えてしまうのだ。

昨年はあまり違和感なく書き続けていたけれど、そろそろレベルアップの必要性を感じている。いちおう課題をもらって書き続けているけれども、ここ一か月くらい物足りなさというか、もう一歩突き抜けないと進歩しないような手応えのなさがある。
新しい手法というよりは、自分の(現在の)方向性をいったんもう少し精緻化して、詰めていく感じだろうか。限定ということではなく、いま磨くべき技術というか方向性を深めていく。そこからまた広がりがあるかもしれないし、新しい気づきもあるかもしれない。
読書以外の経験的なインプットや視覚からの新しい刺激や感じ方も必要になるかもしれない。もっといろいろなことに触れなければならない。

自分を失望させたものに、それ以上、希望を見出さない。不必要なもの、違和感を感じたものを切り捨てながら、残ったものを信じていく。それが軌道に乗ってから、また過去を顧みる余裕ができた頃になって、改めて捨ててきたものを振り返って、見直してみたっていい。

小説を書く。1時間半くらいで5000字ほどか。いいペースなのかどうかはよくわからない。最近は外に書きに出かけないと集中できないというか、家では一切書けなくなってしまったのだけれど、もう少し部屋を片付けるなりして、集中できる環境を整えていきたい。と思い続けてどんどん時間だけが経っていく。

自分のやりたいこと、やってみたいことがあるとして、それを人にプレゼンテーションしてみたけれど、上手く伝わらないことがある。それは自分の説明能力の拙さが原因の一つではあるし、実際にその内容が面白くないものなのかもしれない。ただ、それが面白くないものかどうかというのは、実際に形にしてみないとわからない部分もあって、だったらあれこれと思い悩むよりもやってみようということだって、あってもいい。それにはコストが伴うかもしれないし、リスクもあるかもしれないけれど、もしそれを負担するのが自分である場合には、別にためらう必要なんてないんだ。
業務上の企画などでは多くの他者が関連する場合もあり、そう簡単にはいかないけれど、自分の説明力の不足で、面白くなりそうなものや、熱意を傾けられそうなものが潰えてしまうのは、とても惜しいことだ。だったらプレゼン力を磨けばいいのだし、実際に何とかうまく伝えようとするけれど、そういう生来不得手としているようなものを克服するのは容易いことではなく、時間を経れば経るほど、硬直してしまうのかもしれなくて、そして、上手くいかずに潰えてしまった行き場のない熱意が燃え尽きてしまうことが自分にとっては、とても恐ろしいことのように、何か、コミュニケーションというものに自分の一部をスポイルされていくような息苦しさがある。
そして、それが業務上のことではなく、もっとプライベートな空間での出来事であった場合に、果たして、その脚下に従う意味はあるのだろうか。やりたければやればいいし、つまらないと一蹴されたのなら、そんな相手とは別に協働する必然性もないのではないか。それなのに迷いが生じてしまうのは、自分が「協調性のないやつ」だと思われることを恐れているかだ。そんな恐れは、何も意味がないし、恐らくそこでの関係性など、少し時間が経てば霧消してしまうような薄いものだ。そしてもう一つ、恐れていることがあって、それは「伝わらなかった」「伝えるのがヘタだった」という自分の欠点、その、相手に伝わらなかったことについて、拗ねて逃げ出したと思われることを恐れているからだ。たしかに、立ち向かって相手にしっかりと伝えることで、何かが変わるだろうし、克服や成長がそこにはあるのかもしれなくて、そういう期待のために色々な労力や精神的な不快感に耐えることも必要な場面だってあるだろう。しかし、そうした努力あるいは労力を何事に対してもかけていられるほどの余裕が今の自分にあるのだろうか。
余裕、というのはなすべきことに注力して、そこでまず全力を尽くしたうえで、それでもまだ「全力を尽くすべき場所」以外で使う力が残っていた場合に付き合えばいいのであって、何事にも全力で挑める人というのもいるだろうけれど、自分がそうではないのだと、まず認めてもいいのではないか。勝ち負けの話ではないかもしれないけれど、そういう「負け」、つまり、自分が本気で戦いたいと思っている場所以外での負けを認める勇気を、いい歳をして自分はまだ身につけられていない。それは妥協とは違う、本当の場所で、全力を出すため、集中していくための、選択であると信じられない弱さかもしれない。
そしてこんなことを書き連ねていること自体が、逃げや弱さの表出なのかもしれないけれど、それだって、こうして書き出して読み返していろいろ試行を重ねていくことで、自分の選択というのがほんの少しでも精度を増していくかもしれないのだから、無駄ではないと、思いたい。