自分のやりたいこと、やってみたいことがあるとして、それを人にプレゼンテーションしてみたけれど、上手く伝わらないことがある。それは自分の説明能力の拙さが原因の一つではあるし、実際にその内容が面白くないものなのかもしれない。ただ、それが面白くないものかどうかというのは、実際に形にしてみないとわからない部分もあって、だったらあれこれと思い悩むよりもやってみようということだって、あってもいい。それにはコストが伴うかもしれないし、リスクもあるかもしれないけれど、もしそれを負担するのが自分である場合には、別にためらう必要なんてないんだ。
業務上の企画などでは多くの他者が関連する場合もあり、そう簡単にはいかないけれど、自分の説明力の不足で、面白くなりそうなものや、熱意を傾けられそうなものが潰えてしまうのは、とても惜しいことだ。だったらプレゼン力を磨けばいいのだし、実際に何とかうまく伝えようとするけれど、そういう生来不得手としているようなものを克服するのは容易いことではなく、時間を経れば経るほど、硬直してしまうのかもしれなくて、そして、上手くいかずに潰えてしまった行き場のない熱意が燃え尽きてしまうことが自分にとっては、とても恐ろしいことのように、何か、コミュニケーションというものに自分の一部をスポイルされていくような息苦しさがある。
そして、それが業務上のことではなく、もっとプライベートな空間での出来事であった場合に、果たして、その脚下に従う意味はあるのだろうか。やりたければやればいいし、つまらないと一蹴されたのなら、そんな相手とは別に協働する必然性もないのではないか。それなのに迷いが生じてしまうのは、自分が「協調性のないやつ」だと思われることを恐れているかだ。そんな恐れは、何も意味がないし、恐らくそこでの関係性など、少し時間が経てば霧消してしまうような薄いものだ。そしてもう一つ、恐れていることがあって、それは「伝わらなかった」「伝えるのがヘタだった」という自分の欠点、その、相手に伝わらなかったことについて、拗ねて逃げ出したと思われることを恐れているからだ。たしかに、立ち向かって相手にしっかりと伝えることで、何かが変わるだろうし、克服や成長がそこにはあるのかもしれなくて、そういう期待のために色々な労力や精神的な不快感に耐えることも必要な場面だってあるだろう。しかし、そうした努力あるいは労力を何事に対してもかけていられるほどの余裕が今の自分にあるのだろうか。
余裕、というのはなすべきことに注力して、そこでまず全力を尽くしたうえで、それでもまだ「全力を尽くすべき場所」以外で使う力が残っていた場合に付き合えばいいのであって、何事にも全力で挑める人というのもいるだろうけれど、自分がそうではないのだと、まず認めてもいいのではないか。勝ち負けの話ではないかもしれないけれど、そういう「負け」、つまり、自分が本気で戦いたいと思っている場所以外での負けを認める勇気を、いい歳をして自分はまだ身につけられていない。それは妥協とは違う、本当の場所で、全力を出すため、集中していくための、選択であると信じられない弱さかもしれない。
そしてこんなことを書き連ねていること自体が、逃げや弱さの表出なのかもしれないけれど、それだって、こうして書き出して読み返していろいろ試行を重ねていくことで、自分の選択というのがほんの少しでも精度を増していくかもしれないのだから、無駄ではないと、思いたい。