とある絵


 高校生のころに美術の授業で描いた油絵があった。
 課題はよくあるもので、場所を決めて数週間かけて校内の風景を描くというものだった。
 雨が降ったときでも場所を変えることなく、また季節の変化や陽の光の具合に影響を受けない場所を選びたいと思い、屋根のある渡り廊下に設置されていた、自動販売機を描くことに決めた。
 美術の授業は二時限連続で行われていて、私がイーゼルを立てて一人ぼっちで絵を描いている渡り廊下を、授業の合間に移動するたくさんの学生が通っていった。
 知人や友人、部活動の先輩たちは、何故こんな場所で自動販売機を描いているのだろうかと、興味を持ってくれたのか、呆れていたのか、通るたびに声をかけてくれた。
 はじめのうちは真面目に描いていたのだけれど、次第に完成に近づいて行くにつれて、見本の缶の模様や文字などといった、細かい部分を丁寧に仕上げるのが面倒くさくなってしまい、完成した絵はどこかぼやけたような印象になってしまった。
 そうして仕上がった絵は、家に飾っておくには味気なくて、かといって仕舞っておくには大きすぎた。
 祖父のところに送っておけば、孫の描いた絵だといって喜んでくれるだろうと、とりあえず母の実家へ送りつけておいた絵が、そのあとどうなってしまったのか、すっかりその存在を忘れたまま、ずいぶん長い時間が過ぎ去っていた。
 そんな絵と予想外の再開を果たして、それが今までどうやって保管されていたのかということについて、昨日不意に知らされた。
 祖父の家に送られた絵は、何故かそれを見つけた叔父の気に入ったらしくて、叔父は「これは僕のために描いてくれた絵だから」と言って、引っ越しのたびに持っていって、机の上のよく目立つ場所に飾っていてくれていた、というのだった。
 その絵を描いていたときに、叔父のことなど考えていなかったし、祖父の元へ送ったときにも、叔父の気に入るなど予想もしていなくて、そしてそれをずっと叔父が持っていてくれたということを、想像したこともなかった。
 決して上手いわけでも、綺麗なわけでもない油絵の、どこを気に入ってくれたのか、是非とも聞いてみたくって、叔父に尋ねてみたいと思った。
 もう長いこと、ちゃんとした絵など描いていなくって、自分に上手い絵が描けるとは、ちっとも思っていないのだけれど、誰かの気に入るものや、誰かに大切にしてもらえるものを創造するということに、必ずしも上手さだとか、美しさといったものは必要ではないのかもしれない、とほんの少しだけ、自分の表現したい世界が広がったように感じられた。
 私がそのことを知ったのは叔父の四十九日の集まりだった。だからどんなに望んでも、私はその絵の何が叔父を引きつけたのか、知ることができないのだ。
 でも、もしもこの機会に絵の在処を知ることがなかったなら、恐らく一生、この絵のことを思い出すことはなかったと思う。